【引退記念インタビュー前編】富山貴光「大宮との契約がなければ引退しようと思っていた」

今回は、昨年末に現役引退を発表し、今季からアカデミースカウトに就任した富山貴光のロングインタビューをお届けする。数々のドラマとともにあったプロ13年間。オフィシャルライターの戸塚啓さんが、丁寧にその足跡を振り返ります。前編の今回は、引退に至った経緯と、大宮加入からの3年間について。


現役生活の節目として。35歳の決断

富山貴光が紡いだプロ13年のシーズンには、知られざる物語が詰まっている。一つや二つ、ではない。現役を退いた今だからこそ語ることのできる出会いがあり、感激と歓喜、悲しみと苦悩、そしてドラマがあった。

「ここ数年はつねに引退を考えながらで、大宮との契約がなければそうしようと思っていました。引退につながるようなケガなどはなくて、身体的にはまだやれると思います。どちらかと言うと気持ち的な部分というか、最後はここでやり切って、と。ありきたりですが、ここ数年は練習から一日一日を無駄にしないで、悔いのないようにサッカーをやろうと思っていました」

現役引退が発表されたのは12月26日だった。プレーオフ準決勝での敗退から、3週間弱が過ぎていた。

「代理人は次のクラブを探したほうがいいんじゃないかと言ってくれましたが、自分から売り込むのは違うなというのがあって。熱意を持って誘ってくれるチームがあるのなら、一度話を聞こうというスタンスでした。最終的にオファーはなかったので、それなら引退しようと決めました。2026年は年男なので、35歳でやめるのは節目としていいかなというのもあり、このタイミングで未来へ向かっていこうと」


【2025シーズンのJ1昇格プレーオフ準決勝・千葉戦。試合後には涙を流した】


大宮入りを決めた、一人のスカウトの存在

プロフェッショナルとしてのキャリアは、2013年に動き出した。早稲田大学から大宮に加入したのだが、実はそれ以前にもプロ入りを考えたことがある。

「矢板中央高校2年の途中から、ベガルタ仙台の強化指定選手になりました。学校にほとんど行っていないぐらいにチームに帯同して、高校には公式戦の2週間ぐらい前に戻って、終わったらまたベガルタへ行くという繰り返しで、プロの基準を学ばせてもらいました。当時のスカウトが長山郁夫さんという方で、すごく良い条件でプロ契約のオファーをいただきました。好きな背番号も用意すると言われて、ものすごく悩んだんですが、早稲田へ行けるなら大学へ行きたい気持ちがあり、スポーツ推薦をいただけるということで進学を決めたんです」

早大在籍時にはU-21日本代表の一員として、2010年のアジア競技大会に出場した。翌年はユニバーシアード代表として戦った。成長の歩みは力強く、4年時には複数のクラブからオファーが届いた。

「最終的に大宮と神戸に絞り込みました。ただ、大宮も神戸も2012年はJ1残留争いに巻き込まれてしまっていて……。大宮は残留して、神戸はJ2へ降格してしまいました。僕自身はJ1でやりたい気持ちが強く、実家のある栃木にも近いということで、大宮にお世話になることを決めました」

大宮入りを決めた理由が、もう一つある。大宮のスカウトが、かつてお世話になった長山だったのである。

「早稲田で試合に出られないときに声をかけてもらうなど、ずっと見てくれていました。そういう縁もありました」

大宮では1年目から試合に絡む。開幕戦でいきなり途中出場した。舞台はNACK5スタジアム大宮である。

「ピッチに入って声援を聞いた瞬間、ホントに鳥肌が立って。人生で初めて、背筋がザワッとしたというか。あの瞬間は、今でも忘れられないですね。ファン・サポーターのみなさんの声援をスタンドで聞いたことはあったんですけど、ピッチで聞くと地鳴りのような感じというか」

100の力が150に、いや、200になる。

このスタジアムの力はすごい。22歳の富山は、心に誓った。

〈オレは絶対に大宮で活躍してやる〉

プロ1年目は26試合に出場し、3ゴールを記録した。控えメンバーが現在の8人より一人少なく、交代枠は5ではなく3だったから、指揮官ズデンコ・ベルデニックにも、ベルデニックの後を継いだ小倉勉にも、評価されていたことが分かる。

「FWにはズラタンとノヴァコヴィッチがいて、もちろん負けたくないと思ってプレシーズンから過ごしていくんですけど、一緒にやってみると彼らのすごさがよく分かるんですね。それでもやっぱり負けたくないし、どうしたら彼らを押しのけてスタメンで出られるのかを自問自答して、日々研究して。その中でも調子が良ければスタメンから出してもらったこともありましたが、あの2トップが強力過ぎて、サイドハーフで使われたりしました」

ストライカーとして使われない──悔しさにまみれてもおかしくない状況を、富山は奇貨とするのである。

「それまでFWしかやってこなくて、サイドハーフだと攻撃への関わりが全然違います。中盤でゲームを作ったりもする。守備のタスクも違う。いろいろなことを学べた1年間でした。あれがあったからこそ、プロで13年間もできたなと僕は思います。FWだけやっていたら違うポジションの選手の気持ちも、守備のやり方も理解できず、2年か3年で契約満了になっていたんじゃないかと思います」


【Jリーグ初得点後の歓喜の輪。富山(左から2人目)はアシストした下平(同3人目)らに祝福された】

初ゴールは第3節のアルビレックス新潟戦でマークした。下平匠の直接フリーキックからヘディングシュートを決めた。「初出場とか初ゴールとか、僕はそういうのをあまり気にしないんですが」と申し訳なさそうに話すものの、記憶はしっかりしている。

「タクミくんのフリーキックから、僕の頭に触ったかかどうかみたいなヘディングシュートでした」

2点目は翌節の鹿島アントラーズ戦である。ノヴァコヴィッチのパスを受けて右サイドから持ち込み、カットインして左足を振り抜く。鮮やかな弾道の一撃が、ゴール左上へ突き刺さった。

3点目は5月6日のサンフレッチェ広島戦。

「激突、ですね」と富山が言う。1対1で迎えた84分、相手DFのバックパスを鋭く狙ってヘディングで押し込んだ直後、飛び出してきたGKと激突したのだった。

「ヘディングをしたところで記憶が途切れて、担架でロッカーに運ばれてしばらくしたあとに、記憶が戻りました。試合はどうなりましたと聞いて、『お前が決めたんだぞ』と言われて、『あ、そうなんだ』という感じで。両親とまだ交際中だった妻が試合を観に来ていたので、心配しているだろうから早く連絡しなきゃ、と思ったことを覚えています」

2013年のチームは前シーズンと合わせて21試合無敗のJリーグ記録を打ち立て、第8節から第16節まで首位に立った。ところが、シーズン中盤から2度の8連敗を喫した。最終的には14位でフィニッシュしている。

「ジェットコースターに乗っているようなシーズンで、こんな経験をしている選手はなかなかいないだろうなと思って。成長させてもらってありがたいというか、このチームを変えたいと思いました。J1残留争いをするのではなく、J1に定着して上位に絡んでいくようないチームにしたい、という思いが強かったです」


J2優勝のピッチ。「あの場に立てたことが財産」

プロ2年目は15試合出場でノーゴールに終わった。リーグカップと天皇杯を含めると、22試合に出場した。

チームはJ1で16位に終わり、J2へ降格してしまう。

「チームがなかなか勝てない中で、試行錯誤した1年でした。どうしたらチームが勝てるのか、どうしたら自分が活躍できるかと、ずっと考えて、悩んでいました。残留争いをしていく中でたくさんの人が応援してくれて、僕自身もいろいろな先輩方の背中を見てきて、そういう人たちの思いも含めて戦っていたので、ホントに申し訳ない気持ちでした」

3年目はリーグ戦12試合出場で1得点だった。J2優勝でのJ1復帰を果たしたチームでは、ムルジャが19得点を、家長昭博が11ゴールを記録した。「J1復帰に貢献する」との思いを数字で示すことはできなかったが、富山は自分なりの手ごたえをつかんだ。

「なかなか出場機会に恵まれなかったのですが、それでもめげず、腐らずにやり続けました。今やっていることは絶対に間違いじゃないと言い聞かせながら日々の練習に取り組んで、ラスト10試合はずっとメンバーに入って、J2優勝を決めた試合のピッチに立つことができた。その瞬間にピッチに立っているかいないかは、たぶん全然違うと思うんです」

J3降格圏に沈む大分トリニータを迎えたホームゲームは、54分までに2点のリードを許す展開となる。渋谷洋樹監督に投入された66分の時点でも、スコアは0対2のままだった。

「万全の準備をして不安要素が一つもない状態で試合に臨んだので、僕自身は逆転して優勝までいけるという感覚でした。1点取れば絶対に流れが変わると思ったし、そのとおりにムルジャが2点を取って。アキくん(家長)が3点目のPKを蹴る前に後ろを向いたりして、『緊張してんな、でも大丈夫だろうな』、と思いながら見ていて。あんなドラマティックな試合はなかなかないので、あれを経験できたのはすごく大きかったし、夢中でやっていたけど楽しかったですね」


【反撃のゴールを奪ったムルジャ(左)のゴール後、ボールを持ってセンターサークルに向かう】

2015年のチームは、J2優勝でのJ1復帰を唯一の目標とした。そのための戦力はそろっていたが、だからこそ重圧は大きかったはずである。対戦相手の包囲網も厳重だった。

「いいメンバーがいるから勝てるとは限らないわけで、プレッシャーをはねのけて目標を達成したのは価値があった。チームも僕自身も成長できたと思います。大分戦で得点やアシストに絡んだわけではないのですが、あのピッチに立ったことが財産になりました」

2016年、チームは勇躍しJ1へ復帰したが、スカッドに富山の名前はなかった。

「大宮では前年はあまり試合に出場していなかったですが、当時J2だったファジアーノ岡山をはじめ、いろいろなチームから声をかけていただきました」

のちの大宮で共闘する長澤徹監督と会い、熱い言葉に心を動かされたが、最終的にはJ1でプレーしたいという思いからサガン鳥栖への移籍を決意したのだった。

※中編に続く。


戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。

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