今回は、3月30日の徳島ヴォルティス戦でJリーグ通算400試合出場を達成した杉本健勇選手のキャリアを振り返るコラムをお届け。特に印象的だった4シーズンをピックアップし、当時取材していた3人の記者(東京ヴェルディ:田中直希記者、川崎フロンターレ:いしかわごう記者、セレッソ大阪:小田尚史記者)に、ピッチ内外から足跡をたどっていただきました。
ブレない男・杉本健勇の足跡
2012年、東京Vでの衝撃の4ヶ月
高校3年の2010年途中にセレッソ大阪とプロ契約をかわし、翌2011年はJ1で15試合出場2得点。しかし2012年に就任したセルジオ・ソアレス監督の下で出場機会を減らすと、ロンドン五輪出場を見据えて3月に東京ヴェルディへの期限付き移籍を決めた。
当時J2の東京Vは、川勝良一監督の下、手練れたちがそろっていた。土肥洋一、土屋征夫、森勇介、佐伯直哉、西紀寛、巻誠一郎…。そんな先輩たちに可愛いがられた杉本健勇は、後半開始から投入された東京Vデビュー戦(J2第6節・FC町田ゼルビア戦)でいきなりゴール。しかも2-1とする決勝点だった。高い技術とヘディングの強さ、スピードなど「FWに必要なものをすべて持っている」と周囲に称され、デビュー2試合目も得点を決めて先発に定着したが、得点が奪えない時期も経験。これを見て川勝監督がプレーの細部について練習場で厳しく指導し、“特別扱い感”を取り除いたことをよく覚えている。「とにかく結果を求める」という本人の宣言どおり、巻や阿部拓馬との2トップはJ2を席巻し、わずか4カ月の在籍ながら18試合出場5得点3アシスト。彼が抜けた際もチームは2位をキープしていた。
好調をアピールしたことで、大迫勇也(現ヴィッセル神戸)らを抑えてロンドン五輪日本代表に最年少でサプライズ選出。こうした好成績を受けて、C大阪の強い要望で復帰することになる。ロンドンに飛び立つ直前にゴール裏の前で感極まりながら語った、「短い期間でしたが、本当に充実していました。正直、このクラブで一緒にJ2優勝を成し遂げたかったです。ヴェルディが大好きです」という言葉、緑のサポーターは忘れていない。
東京Vの雰囲気は、どこか育ったC大阪に近いものがあったのだろう。2009年度の杉本健勇、2010年度の小林祐希、2011年度の杉本竜士と、日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会のMVPがチームにそろっていた。プロ2年目の小林がキャプテンを務めるチームには性格が似ている同世代も多く、威勢のいい若手を許容する文化もそこにはあった。肝っ玉母さんのような広報がいて、見た目は怖そうでも後輩に優しい先輩や監督がいた。一方で、やんちゃをしていても静かにそれを見つめてくれる高橋祥平、和田拓也らもいた。初めての移籍でも、居心地は良さそうだった。
これは当時、公にもされた話だが、すべての十二支を言えない、などのお茶目な部分も杉本が愛された理由だろう。
川勝監督はロンドン五輪メンバー選出後も「優遇はしないよ」と言い、国内で行われた五輪代表壮行試合で得点を決めた翌日もフルメニューを課していたことを覚えている。“出る杭を打たない”。そんな文化が杉本を成長させた。
FWとして一皮むけた2015年、川崎F時代
川崎フロンターレでの1年は、FWを開花させることに定評のある風間八宏監督の下でプレーした。当時のハリルホジッチ監督が視察に来ていた試合で移籍後初ゴールを決め、5月の日本代表短期合宿に招集されるなど、大きな飛躍も期待されていたシーズンだ。結果的にはリーグ戦6得点と、大久保嘉人や小林悠との競争の中、チームスタイルにフィットし切れずに1年が終わってしまった印象はぬぐえないが、本人は「悩むことや考えることも多かったけど、前まではできなかった動きや型が学べた」と、前向きな言葉を最後まで口にしていた。川崎F時代に身につけたFWとしての引き出しが現在に生かされているならば、幸いである。
取材していて感じた彼の人間性は、自分の本音をとても大事にしていることだ。そして、それを言葉として発するとき、そこをごまかしたり、変に取り繕ったりもしない。例えば川崎Fにやってくる際、彼は移籍か残留かで大きく悩んだ末に、移籍を決断している。その選択をしたあとも、「C大阪というクラブは、自分にとって一番大事なクラブです。それは今も変わりません」と古巣に対する愛着を隠すことはなかった。川崎Fの一員になったからといって、自分の本音を隠したり、「セレッソはフロンターレと同じぐらい大事なクラブです」ということを言ったりもしなかった。自分の中にまっすぐの芯が通っているのだろう。捉え方によっては、ちょっとだけ不器用にうつるかもしれないが、そこが「杉本健勇らしさ」なのだろうと思った。
なお、普段はどこかおっとりとしており、天然キャラクターだったので、川崎Fではよくいじられていた。漢字が苦手で「島根」を「鳥根」と書いていたことを登里享平(現C大阪)から暴露されていたのを覚えている。これからも、どこか憎めないストライカーであり続けてあってほしいと願っている。
覚醒前夜の2016年、C大阪で示した男気
C大阪でストライカーとして覚醒したシーズンが2017年なら、その覚醒前夜と呼べるシーズンが前年の2016年だった。C大阪がJ2に降格した2014年のシーズン終了後、一度は川崎Fに移籍した杉本だが、2015年のJ1昇格プレーオフ決勝でアビスパ福岡と引き分けてC大阪がJ1昇格を逃した瞬間、「自分が戻って、J1に上げる」ことを決意。「自分の復帰を快く思わない人たちにも応援してもらえるように、プレーで見返す」と不退転の覚悟で“出戻り”を果たした。
もっとも、シーズン序盤は先発に定着したわけではなく、得点数も伸び悩んだ。ただし、第17節のV・ファーレン長崎戦でエース・柿谷曜一朗が負傷離脱して以降、「自分が点を取って勝たせたる。自分がJ1に導く」という思いが増すと、得点のペースが一気に加速。第32節・ギラヴァンツ北九州戦、第33節・徳島ヴォルティス戦では、その前の天皇杯で肋骨を骨折した影響で本来はプレーできる状態ではなかったが、「(試合に出たい)自分の気持ちをドクターにぶつけて説得して」(杉本)、志願の出場。2試合とも決勝点を決めてチームを勝利に導くと、徳島戦後のヒーローインタビューでは、「骨1本ぐらいで痛いなんか言っていられない」と言い切った。その裏には、「(柿谷)曜一朗くんが大きなケガをして苦しい思いをして、復帰に向けて頑張っている。曜一朗くんのためにも頑張りたい気持ちが今の自分にはある」という仲間思いの一面もあった。
このシーズンは、敗れた試合後にサポーターの野次に熱くなる場面もあった。「こっちも本気で戦っているし、サポーターの方も本気で応援してくれている。ぶつかることは悪いことではない」と意に介さず、スタジアム全体を巻き込む熱を発していた。そうした彼の気概がJ1昇格の原動力になったことは間違いない。奔放な言動で時に誤解されがちな選手だが、男気にあふれた背中は今も心に焼きついている。
2016年、C大阪はJ1昇格プレーオフ決勝に勝利し、J1復帰を決めた
キャリアハイの2017年、桜の歴史に刻まれた大活躍
C大阪時代の最大のハイライトは2017年、クラブ初のタイトルを含む二冠を獲得したシーズンだ。この年、杉本はJ1リーグ34試合22得点をマーク。最終節で小林悠(川崎F)に抜かれて得点王こそ逃したが、アカデミー時代から将来を嘱望され、桜の歴代指揮官の誰もが惚れ込んだ逸材がついにその殻を破り、ストライカーとしての才能を開花させた1年として刻まれた。
その要因の一つが、ユン・ジョンファン監督との出会いだ。2016年は左サイドMFや2シャドーの一角で起用されることも多く、足元の技術も備えた器用なスタイルゆえ、彼自身、少し下がった位置で前向きにボールを受けることを好む傾向にあったが、ユン・ジョンファン監督は前線で点を取る役割を彼に与えた。2017年は一貫してCFで起用されたことで得点量産につながった。
C大阪時代の恩師、ユン・ジョンファン監督(左)
もう一つの要因が、2トップを組んだ山村和也(現横浜F・マリノス)の存在だ。それまではボランチやCBとしてプレーしてきた山村をユン・ジョンファン監督はFWに抜擢。走れて収まる相棒を得たことで、マークも分散し、杉本はゴールを奪うことに専念できた。また、このシーズンは右SHに水沼宏太、左SHに清武弘嗣や柿谷、右SBに松田陸、左SBに丸橋祐介と、優れたクロッサーやパサーが豊富に存在。両サイドから良質なクロスが上がってきたことも大きい。ニアに飛び込みボレーで合わせる形、豪快なヘディングを叩き込む形、ドリブルで運んで決める形と、実に多彩な得点パターンを披露した。
クラブ初戴冠となった2017年のルヴァンカップ決勝では、開始1分、先制点を決めてMVPを獲得した。この年はヴァイッド・ハリルホジッチ監督が率いる日本代表にも選出されており、ルヴァンカップは決勝戦が初出場。「ここまで連れてきてくれた選手たちの思いも背負って」ピッチに立つと、試合後の表彰セレモニーでは、「最高ォー!!」という絶叫が埼玉スタジアム2002に響き渡った。最前線で力強くチームを引っ張った勇姿は桜のクラブ史に燦然と輝いている。
2017年、ルヴァンカップMVPに輝き、「最高ォー!!」と叫んだ
そして、現在へ。400試合出場達成を経て
2025年4月5日、Jリーグ通算400試合出場セレモニーは、知人のお子さんに花束を贈呈される形で行われた。柔和な笑顔で子どもの頭をポンポンと触り、サポーターの声援に手を上げて応えた──。
チームに欠かせない選手として完全移籍に移行した今季も、杉本は先発出場を続けて大宮をけん引。誰もが認める頼れる主軸選手として、このセレモニーを迎えた。
この日は珍しく後半の早い時間に交代し、チームも引分け。試合後のミックスゾーンでは、言葉少なではあったものの、セレモニーや400試合出場についての問いに「感謝」という文言を何度も使って答えた。
「試合数を意識してやってきたわけではないですが、間違いなく一人ではここまで来られなかった。チームメート、それにいろいろな方の支えがあったので、頑張って恩返ししたいと思います。いつも思っていることですが、いろいろな人に感謝したいですね」
大宮の後輩たちに優しくアドバイスする姿を見せるなど、かつて先輩たちから受け継いだものを、次の世代に伝承することも続けている。
「感謝」の400試合。すでにJリーグ功労選手賞の条件はクリアしているが、J1リーグ戦通算300試合出場まであと4試合と迫っている。この記録も、極めて近い将来に達成してもらいたい。
田中 直希(たなか なおき)
2009年からサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の記者として活動。首都圏を中心に各クラブの番記者を歴任し、2025年からはRB大宮アルディージャの担当を務める。著書に『ネルシーニョ すべては勝利のために』、『Jクラブ強化論』など。
いしかわ ごう
大学卒業後、スカパー!の番組スタッフを経て、2007年からサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の記者に。現在はフリーランスとして川崎フロンターレを中心に取材。著書に『将棋でサッカーが面白くなる本』(朝日新聞出版)。『川崎フロンターレあるある1&2』、『将棋ファンあるある』(TOブックス)など。
小田 尚史(おだ ひさし)
2009年からサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の記者として活動。2009年から2013年まではセレッソ大阪と徳島ヴォルティスを兼任。2014年以降はC大阪専属となり、現在はC大阪のオフィシャルライターとしても活動。専属となった2014年からは、国内のC大阪の公式戦はすべて現地取材を継続中。